和歌山県白浜町の三段壁にやってくる自殺志願者たちは、恐ろしいほど誰ともつながっていない。身近に家族、友人、子供が
いたとしても、彼らの中ではつながりが断ち切れてしまっているのだ。映画を観ながら思った。
なぜ、彼らは人とつながれないのだろう。
なぜ、彼らは人とつながっていることを自覚できないのだろう。
しかし、それを彼らに求めてはいけない。彼らはそれができないから三段壁にやってきたのだ。
映画の主人公の藤藪庸一牧師は、そんな彼らを理解して向き合い、自分の方から彼らとつながろうとする。
そのあり方こそ、自殺を食い止める手段であり、この無縁社会で私たち一人ひとりが目指さなければならないことなのではないだろうか。
作家・ノンフィクションライター 石井光太
本作の宣伝担当から「ラストの三分はグッとくるよ!」と煽られて観たのだが、そもそもラスト(の場面)は三分ではなく六分余だった……。当たり前だが映画のキモはラストだと思う。では本作はどうか?
そこには対象者らと向き合い、悩みながらも答えを希求する、監督の切なる叫びがあった。グッときた。
ラスト必見の三分、いや六分余である。
映画監督 中村高寛
和歌山の南紀白浜・三段壁で自殺予防活動に励む藤藪庸一牧師の実践を脚色なく、淡々と描く異色のドキュメンタリー映画である。生活自立支援活動での共同生活、そして自立支援の一助としての弁当屋「まちなかキッチン」、などの日常風景がありのまま描かれている。自殺予防やその救出の現場は単純なサクセスストーリや綺麗ごとではなく、牧師自身の抱える答えのない日々の戸惑いと苦悩をそのまま描きだしていたのが印象的であった。そもそも自殺、自殺予防というのが合理的算段で解決できるものではなく、最終的には神の主権とその御手の中にある「いのちの崖」にかかわることであることが映像を通じて暗示しているように思えた。自殺予防にかかわる関係者、福祉関係者、キリスト教関係者ほか、「いのち」に直面するすべての方々にとって必見の映画である。
同志社大学社会学部教授 木原活信
この映画を観ながら、何度はっとさせられたことだろう。これまで自ら命を絶った、身近な人々の顔が次々と浮かんだからだ。あの怯えながらも優しい瞳はあの人に似ている、意地を張りながら自分を守ろうとする態度はあの人に、と。
フォトジャーナリスト 安田菜津紀
人が人をなんとか助けようとする姿に希望を感じる。死ぬために崖にやって来た人たちを死の淵から連れ戻し、共同生活し、奮闘し、奮闘し、奮闘し続ける藤藪さん(牧師)を見るとき、ふたたび生きることに向かう人たちの姿を見るとき、それを記録し続けた加瀬澤監督の眼差しに同化するとき、人と人がなんとかつながってゆく姿に胸が熱くなる希望を受け取る。どうしょうもなく大切なことを、真っ直ぐに突きつける映画です。
写真家 神藏美子
誰かに話を聞いて欲しかった夜、電話の向こうにいてくれたのは、こんな人だったのか。
そんなことを思った上映時間だった。一方で「それなのになぜ」という苦しさも同居する。
この狭間で私たちは生きているのだろう。
映画監督 松江哲明
とてつもなく重要な作品だ。生と死を分けるのものは一体何だろう。
様々な生存のかたちを、我々が模索し、許容して行かなければ、自殺の問題は解決して行かないのではないか。
いや、いっそう深刻さを増して行くだろう。
精神科医 名越康文
自殺を決めた人たちが訪れる三段壁のゴツゴツした岩場は、地獄の景色のように見える。死にきれなくて助けを求めている人に手を差し伸べる藤薮牧師は、彼らが地獄から這い上がれる一本の綱だ。
その藤薮牧師とそこで暮らす人たちを、加瀬澤充監督はありのまま真正面から捉える。
エッセイスト 末井昭
誰かの「死にたい」「助けてください」という思いに対して、この映画が、あの崖の上に置かれた「いのちの電話」のように、「死ななくていいよ」「助けるよ」と巡り巡って誰かに届くことを祈る。
そして、誰かが生き直すことができる空間があちこちに生まれることを。
映像ジャーナリスト・映画監督 綿井健陽
この崖の手前に踏みとどまって、人生を立て直そうとする人々の静かな闘いとともに、カメラもまた彷徨いながら、自らの居場所を探しているように見える。ドキュメンタリーとは何なのか? 私=カメラはあなたのために何をすればいい? 命と釣り合うほどの映画はあるの? 祈りのような真摯な問いとともに、崖の向こうへ行ってしまった人のことを想う。私はこの映画を生きた彼らのことをずっと忘れないだろう。